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-Happy Blues -

始まりの始まり

「はじめてのひ」

母は発狂した。 

それはそうだ、一番のお気に入りであったはずの「ねーね」がこの世界を去ったのだから。 

気が狂ったと初めて認識したのは些細な出来事だった。 

メダカが泳ぐ水槽に濃口の醬油を一本丸々流し始めた。 

父はリビングのソファに腰掛けて、テレビを眺めている。 

そうか、母の発狂を知らなかったのは私だけだったのか。 

私は泣きながら母に抱き着き、「やめて、やめて」と懇願をした。 

すると母は醤油のボトルをぼとっと床に落として、すっかり赤くなった黒目で私をぎょろっと眺めて、それから数秒後に大粒の涙を流して崩れ落ちる。 

よかった、正気に戻ってくれたのだ。すると母は、私を抱きしめてこう言った。 

「よかった、シノブ。おかえり、おかえりなさい。よかった。」と。 

違うよ、お母さん。私、シノブじゃないよ? 何でそんなこと言うの? 

私、ユメだよ? お母さんの娘は、シノブだけじゃないじゃん。 

父の方を見ると、一瞬だけ目が合う。そして光の速さでテレビへと視線を戻した。 私はこの家の中で、「じゃない方」だったのだ。

 

 

テレビなんかで芸人さんが「じゃない方」と呼ばれているのを見て、何となく笑っていたけど。 

ああそうか、これは随分と…きついなあ。 

水槽を泳ぐメダカは既に息絶えて黒い水の上に浮かんでいた。 

母の奇行はそれからしばらくも止まらなかった。 

美容室へ出掛けたと思ったら頭を丸めて帰って来たり、トイレの場所を間違えるようになったり、私の携帯電話からクラスメイトに電話をかけて「シノブを知りませんか?」と尋ねるようになったり。そんな日々が365日、ほぼ2年間も続いた。永遠に思える1日は随分と…辛かった。 

折り紙を始めたのはその頃だった。母が居る前で折り紙をすると母は涙を流してしまうから、 やって良いのは誰も居ない深夜だけだった。 

最初の頃は涙を流しながら折り紙をしていたが、気が付けば笑いながら出来るようになっていた。 

表情筋が随分と固まっている、365日を通して笑顔を続けていると表情筋も随分と発達してきた。笑い続けて気が付いたことが一つ、ある。頬の筋肉が上がることで視界が狭まる。 

見たくないものを少しだけ見なくて済むようになる。辛い事から目を背ける訳じゃない、目を背けてなんかやるもんか。私は私だ。いつか母も私を見てくれるように……… 

そう信じてきたが、春のとある日。母は自宅に居なかった。 

父に「どこに行ったの?」と尋ねると、「遠いところ」と答えた。 

それは死んだという訳じゃない、父は母を病院へ捨てた。 

「もう、つかれたなあ。」と父が呟く。 

何言ってんだよバーカ。私の方が疲れたよ。 

あんた、お母さんと一回でも向き合ったのかよ? 

お母さんはあんたに頼れなかったから、私を頼ったんじゃねーのかよ。 

 

そして次の日、父はこの家を去っていた。別に悲しくはなかった、涙は出たけれど。 

それよりも悔しかった、私はどっちにとっても家族じゃないんだなあって。 

リビングには置手紙が一枚あった。そこに書いていた住所は、祖父母の暮らす古民家だった。 

 

 

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ぴんぽん、と音を立てて家を訪ねる。 

すると、おじいちゃんが出てきた。父の、父だ。 

「………話、きいとる。入らんね。」 

独特の訛りを持つおじいちゃん。正直、この人のことはあまり好きじゃない。 

というのも何を考えてるか、分からないから。私は出来る限りの愛想を振りまきながら部屋へと入る。お爺ちゃんの家には、おばあちゃんは既に居なかった。 

奥には仏壇がひとつ置いてあって、その時に私は全てを察した。 

仏壇は、私の家にも置いてあったから。 

「お前、よう笑うオンナになったな。」 

と、おせんべいをかじりながら私をじろじろと見てくる。 

オンナ、と呼ばれるのはちょっと癪だったが、「あはは」と笑う。笑うしか能がないから、笑う。 

弱い女は笑っておけば何とかなると、この数年で学んだ。 

「俺、もうそろ、死ぬからな。」 

時が止まる。初夏の生ぬるい風が私の肌を優しく撫でまわす。 

「病気じゃ。そんな目で見るな。辛いかもしれんが、現実や。」 

それから半年後にお爺ちゃんは命を引き取った。 

色々な思い出を過ごした。 

一緒に「ろくろ」を回してお皿を焼いてみたり、庭先で野菜を育てて2人で日記を付けてみたり、庭先に入ってくる黒猫をめでてみたり。黒猫は私には決してなつかなかったけど、おじいちゃんの膝上にだけは乗るのだった。それが羨ましくてたまらなかった記憶がある。 

お箸の使い方に関しては随分と厳しく怒られた、「食材が可哀想だ !」と。 

おじいちゃんは私とは正反対で笑うどころか、常に怒ったように不機嫌な表情をしている。 

そんなおじいちゃんに釣られて、少し怒りっぽくなった私だった。 

だけど怒るのは怖い、だから私は笑う。するとおじいちゃんは私の頭をぽん、ぽん、と撫でる。 

この半年間、私は折り紙を一度も折っていないことに気が付いた。 

おじいちゃんは死ぬ前に、「泣くな」と私の頭を撫でてくれた。 

おじいちゃんの葬儀は私も参加した。 

シノブの時と違って、ずいぶんと小さな会場だったし、全部で5人ほどしか参列しなかった。 

それがどうしてか気になって、参列者の人に聞いてみた。 

「あいつは、人でなしだからな。」と、笑っていた。 

違うだろ、何言ってんだよ。私のおじいちゃんを馬鹿にすんなよ。 

………その日の晩、火葬をした瞬間は一切涙が出なかった。 

まだおじいちゃんは生きているような気がしていたからだ。 

だけども、ぼろぼろの骨になったおじいちゃんを見て、ようやく涙が出た。

 

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なんとなく元の家に戻る事や一人暮らしをする気にはなれなくて、のんびりと古民家で暮らすようになった。私はあの日以来、一度も笑う事を辞めていない。感情を無くしたわけじゃなくて、ふとした瞬間に涙が出そうになるのを表情筋で防いでいる、という言い訳だ。 

ひとり、縁側に腰掛けて夕陽を眺めていると黒猫がやってきた。 

「やっほー。ごめんねクロ、おじいちゃん死んじゃったんだ。」 

クロは、私の膝上にちょこんと乗ってきた。お腹が膨らんでいる。 

そうか、この子はお母さんになるんだ。 

そんな些細なことに幸せを感じた瞬間、あいつが現れた。 

「こんにちは、ユメ」 

「………ねーね?」 

「そう、ねーねよ。」 

「なんで、生きて………」 

「いいえ。ごめんなさいね。」 

今さら現れて何の用だよ、と怒りてたまらなかった。 

なのに怒れない、涙が止まらない。 

私はこいつを、嫌いになれないままでいる。 

そんな私に、腹が立った。 

「抱きしめて、いい?」 

「………駄目に決まっているじゃない。」 

「冗談だよ、あははー。」 

「似てきたわね。」 

「なに?」 

「わたしに。」 

とたん、私は叫んでいた。叫んで叫んで、涙を流して、包丁を首につきたてた。 

どうしてそんなことをしたか記憶にない。 

たぶん我慢していたこの3年間の全てが爆発したんだと思う。 

気が付けば時計の針は0時を指し示している。握りしめた包丁は、床に刺さっている。 

なんだか足もとが冷たい。これは………私のおしっこだ。 

映画か何かで極端に怯えた人間が失禁する様子とか見たことがあるけど、アレ、本当なんだなーって思わず笑ってしまった。 

そうか、私………死にたいんだなきっと。 

死んだら会えるかもしれないから? 

でも、じゃあどうして、私震えているんだろう。 

 

どうして、怖がっているんだろう。生きることなんかもう、興味が無いはずなのに。 

1人で死ぬにはまだほど遠くて、1人で生きるのはもっと無理で。 

「私と一緒に死んでくれませんか?」 

そんな文章をインターネットに転がすには、十分すぎる理由だったんだと思う。 

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初めての応募が来た。応募者名は「正義のハッピーガール」らしい。 

何だそれ、と思いながら会いに行ってみる。 

指定された場所は山奥。 

うーん、自殺なんかしなくても、何かしらの動物に殺されそうなもんだな。 

まあ、それならそれで………悪くないか。 

そこには帽子を深々と被り、マスクとサングラスに身を包んだ女性が佇んでいた。 

 

 

なんか、不審者………? 

「は、はじめまして ! ………えへ」 

と、不審者は私に笑いかけてきた。気まずい。 

「あの、私、こういうの初めてで……」 

「いや私もです。あはは……あ、どうも。私、ユメです。」 

「鈴木です。」 

「え? ハッピーガール………」 

「あっ、いや、本名………鈴木留衣、で…」 

「鈴木さん………宜しくお願いします。」 

「………変装とかしないんですね?」 

「え? ああ………あははー。」 

「いや笑うところじゃ………」 

「ですよね………」 

「ぷ………ははは、変なひと………」 

「えっと………じゃあ、早速、いきます………?」 

「ですね………」 

すると鈴木さんは帽子とマスクを外した。 

そこに居たのは紛れもなく、芸能人の「ルイ」だった。 

「ルイ………?」 

「え? あ、やば。」 

と、逃げ出そうとする鈴木さん。 

「鈴木さん、待って !」 

「いや、ごめん…その………ごめんなさい。」 

「何で謝るんですか?」 

「だって、………よくない事だから、こういうの。」 

「………なんで?」 

「なんで、って…そんなの………」 

たぶん、ただの興味だったんだと思うけど。 

どうしてか私は、こう言わずにはいられなかった。 

「あの………うち、来ません?」 

 

 

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ルイさんがうちに来てから半月が過ぎる。 

まだぎこちない瞬間もあるけれど、人が増えただけで随分、空気が明るくなった。 

ルイさんは居間で何やら頭を悩ませている。 

「うーん………」 

「なにしてるんですか?」 

「ちょっと、敬語やめて。」 

「あ、ごめん、つい………。で、どうしたのルイさん。」 

「いやぁ、なんか欲しくない? 名前。」 

「名前?」 

「この家の。」 

「………要ります?」 

「要らないの?」 

「いや、分かんないですけど。」 

「あったほうがテンション上がるじゃん ! 何か無いかなー。」 

「ちなみに候補は?」 

「ハッピーハウス、ハッピーユメ&ルイ、ハッピーハッピー………」 

「分かりました、もう良いです。とりあえずハッピーにしたいって感じ………?」 

「うん。幸せになりたい。」 

「………じゃあさ、………」 

幸せな憂鬱という名前が産まれたのは、これから少し後の事。 

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